水土里ネット山田堰  
 
 
 
 
 
 
 
 
MENU  
 
トップページ
リンク集
アクセス
お問合せ
 
 
 
 
 
HOME > 「山田堰・堀川用水路」の歴史 > 「山田堰・堀川用水路」の歴史
 
 
 
「山田堰・堀川用水路」の歴史
 
 

「山田堰・堀川用水路」の歴史

 

筑後川の概要

・流路延長

143km(九州最大の河川)

・ 日本三大暴れ川の一つ

坂東太郎・・・利根川324㎞

筑紫次郎・・・筑後川143㎞

吉野三郎・・・吉野川194㎞

・ 水源地

熊本県阿蘇郡南小国町阿蘇山外輪山、瀬の本高原に源を発する。

・ 筑後川の名称

筑後川は時代によっては、千歳川・一夜川・筑間川(筑前の国と筑後の国の中間を流れていたことの由来)と呼ばれていましたが、1636年江戸幕府のとき筑後川に統一されました。

・筑後川四大井堰

山田堰(1663年)有明海河口から約56km
袋野堰(1673年・1954年夜明けダムにより水没)
大石堰(1664年)
恵利堰(床島堰)(1712年)

 

堀川の歴史

・ 農民を取巻く社会情勢

戦国争乱の時代から織田、豊臣時代を経て、1600年関ヶ原の戦いの後徳川幕府が成立。幕府は政権確立のため特に外様大名に参勤交代、土木事業の大名負担など経済的圧迫を加え反幕府の力を弱める政策をとりました。

各藩の財政は苦しくなり百姓からの年貢徴収が唯一の財源であったため、検地をおこなったり農民の私生活まで厳しく規制し、米の常食を禁じたり・慶安の御触書

    (1649年)その他百姓心得・百姓出精令・倹約令を発し年貢の増収を図りました。

このような状況下、洪水・旱魃は毎年襲い農民の生活はどん底でした。

1660年代になると生活規制だけでは追いつかず、積極的に新田開発し年貢を増収するため、各藩とも各種の振興策を講じ藩の財政再建を図りました。

新田を開発すれば水利が必要である、北上川・利根川・天竜川など全国各地で利水工事が行われました。

・ 井堰・堀川の歴史

「筑前国続風土記」によれば、「恵蘇八幡宮の前筑間川(筑後川)の水を引いて横3間・長さ9間の樋をかけその上に土手をつき、樋より田に水をそそぎて・・・寛文3年(1663年)より初まれり」とあるように、今から350年前に現在の山田堰のおよそ20m下流に作られました。

当時は、筑後川に石を投入れ・土嚢を積み、杭を打って横3間・長さ9間の樋をかけ、土手をつくり、人工の川を掘って水を流し新田の開墾に努めました。

当時の水田面積は150町歩でした。

水田化が進むにつれて用水不足が生じ、用水量確保が大きな課題となりました。

※絵図・・・1757年(宝暦7年) 朝倉市教育委員会蔵

 

・  「山田堰」「堀川用水路」大恩人「古賀百工」翁について

享保3年(1718年)上座郡大庭村の庄屋の家に生れ、寛政10年(1798年)81歳で天寿をまっとうされました。百工翁の墓は三寺地区上楽の墓地にあります。

百工翁は、うち続く旱魃や水害に見舞われ貧しさにあえぐ農民たちが安定した生活をするには治水しかないとの思いから、自分の一生を治水事業に捧げました。

その事業一つが堀川の改良工事と新堀川の増設工事です。

取入口水門が現在の切抜水門に変更されたのは享保7年(1722年)です、内径は5尺(1.5m)であったが水量も豊富となり新田も増加しました。百工翁は堀川の恩恵に浴しない長渕・余名持・下座郡中村方面の難渋を見るにつけ、この方面へ灌漑する用水路の新設を計画しました。

 

宝暦9年(1759年)切抜水門を10尺(3.0m)に拡張し、次の年には筑後川の井堰の嵩上げ、古毛柴田橋から田中突分までの堀川の川幅拡張工事、同年から明和元年(1764年)までの5ケ年の歳月を費やして、タライに水をはったり、曲がり尺を用いたり、高提灯で高低を測ったり、当時の簡単な測量技術で恵蘇宿水神社境内の「月見の石」と下座郡城力の庄屋の庭にある銀杏の頂上が同じ高さであることを見極め、確固たる自信をもって長渕・余名持・下座郡へ流す新しい堀川(堀川南線)を作りました。

この新堀川の完成によって灌漑面積は370町歩となりました。

・ 山田堰の誕生

70歳になった百工翁は庄屋としての責任から、土地・住民を水害・旱害から守り安定した生活を得るためには、河川の高度利用が重要であるとの信念から、筑後川取水口の全面改修の必要性を痛切に感じていました。

筑後川いっぱいを堰止めて、多量の水を堀川に注ぎ込むことができれば、上座郡・下座郡一帯は永久に干ばつの恐怖から逃れられる、地域農民が生きる唯一の道だとの信念から3年の歳月をかけ数々の問題を解決するとともに、壮大なる石畳の絵図を作成しました。

寛政2年(1790年)百工翁73歳山田堰の大改修・堀川用水路改修(延出役人員62万~64万人)を重ね灌漑面積487町9反の水田を潤すこととなり、約120町歩の新田が開発されました。

・山田堰の構造

堰は大きく南船通し・中船通し・水吐通しの3つに区分され総石張堰(傾斜堰床式石張堰)で日本唯一の方式です。

石張総面積  7,688坪(25,370㎡)

堰頂長さ 177.8間 (320.0m)

堰   高  1.7間  (3.0m)

堰  幅 94間3分(169.7m)

南舟通し   105間8分(190.4m)

中舟通し 81間8分(146.7m)

水吐通し(砂利吐) 13間( 23.4m)

最も水の抵抗が強い南船通し水路側の石積みを高くし、それから中央部までを低く、更に水門取水口付近へ向かって石畳を次第に高く勾配をつけ、石畳表面の中央部に緩やかな勾配をつけています。これは、そのくぼみで余水吐きの働きをさせ、堰体に強い水圧を加えずにしかも取入口に十分な水量を送るようにしたものです。

・ 堰の復旧工事

長い年月のうちには幾度となく大洪水に見舞われ、特に昭和28年の大洪水では大石堰・床島堰は流失しましたが、山田堰のみが流失することなく現存しました。

その後、昭和55年の水害で堰全体の42%が被災し灌漑不能となりました。県営事業として6億5000万円の巨費を投じて、在石使用、総張石コンクリート造りによる原形復旧工事として大改修がなされました。

現在生物多様性が国際的問題となっていますが、山田堰は生態系を壊さない魚が遡上する堰です。

・ 水門の歴史

取水口は寛文3年(1663年)現在の水門から12間(21.6m)下流に作られました、土砂の堆積等により使用不能となり享保7年(1722年)現在の位置に長さ11間(19.8m)、内法5尺(1.5m)4方の切抜水門に変更した。宝暦9年(1759年)水量確保のため内法10尺(3.0m)に広めました。

なお、トンネルの吐き出し口付近の水底は、堀川の川底より低く作られ取水口から流入した水は「サイフォン」のような勢いで吹き上げられ、土砂が水門内に堆積しないような工夫が施されています。

 


水車の誕生


・ 水車の歴史

堀川が開通して150町歩の畑が水田に生まれ変わりましたが、菱野・古毛周辺高台の50町歩の畑地に水を汲上げる事はできません。清々たる堀川の流れを目の前にしながら100年位は常に干ばつの被害を受けていました。

1660年頃から1780年頃にかけて足踏式の水車が全国に広まりましたが、菱野・古毛周辺50町歩の畑地に水を汲上げることはできませんでした。

地元の人達は苦心に苦心を重ね失敗を繰り返しながら、寛政元年(1789年)長年の努力で三連水車1基・2連水車2基を作り上げ、現在も220年前と変わらない水車が稼働し1日20,400t灌漑面積35haを潤しています。

なお、全国で水車が廃止されポンプに変わる中、この朝倉でも水車群の存続について様々な困難な場面もありましたが、先人の残した歴史的農業遺産を守ろうと、農家の理解により220年存続しているのです。

三島の二連水車

久重の二連水車

 

* 国の指定等

・ 昭和47年  県「民族文化財」

・ 昭和61年  建設省「手づくり郷土賞」受賞

・ 平成  2年  国の「特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝」指定

・ 平成18年  堀川用水路「疏水百選」に認定

 

 
 
 
この記事に対するレビュー
 
新規コメントを書き込む